蘇る現代の「魔笛」
アダムズ&セラーズコンビの最新オペラ
「 A FLOWERING TREE 花咲く木」
ジョン・アダムズ単独インタビュー
2008年10月13日 NY・マンハッタンにて
インタビュアー:渡辺和(音楽ジャーナリスト)
今、世界で最も多忙な作曲家と言われるジョン・アダムズの単独インタビューが実現しました。現地では自伝本の出版や、自身のオペラ『ドクター・アトミック』のメトロポリタン歌劇場での初演もあり、NY音楽界の時の人となっていた時期。
今回、東京交響楽団で上演するオペラ『フラワリング・ツリー*花咲く木』は『ドクター・アトミック』の対の作品ともいえるようです・・・両作品への思いをアダムズが語った、貴重なインタビューとなりました。インタビューは『ドクター・アトミック』NY初演を控えた当日の朝、おこなわれました。
アダムズ:たまたま読んでいた村上春樹『羊をめぐる冒険』ペーパーバックを手にしながら)息子は1年日本にいたことがあって、早稲田に数ヶ月いました。数ヶ月京都にいたこともあるんです。私は日本語はしゃべれませんけどね(笑)。
――そうなんですか。さて、私が質問したいことはふたつあります。ひとつは東京交響楽団が上演するオペラ《フラワリング・ツリー*花咲く木》日本初演について。もうひとつは、《ドクター・アトミック》についてです。ところで、サンフランシスコの初演以来、これまでに日本のメディアが《ドクター・アトミック》についてインタビューしたことはあったのでしょうか。
アダムズ:貴方が初めてだと思います。
――やはりそうですか。残念ながら私はサンフランシスコでの初演は拝見することができなかったのですが、昨年、アムステルダムでの上演を拝見しました。たまたまDVDになっている映像を収録していた日の上演です。
アダムズ:なるほど。
――で、あるシーンにとても衝撃を受けたわけです。それが今日インタビューさせていただきたいと思った理由なのです。このインタビューはこのオペラ日本初演のプログラムに掲載される予定です。
アダムズ:わかりました。
◆オペラ『フラワリング・ツリー*花咲く木』について
――まず、この御著書(注:10月初めに出版されたばかりのアダムズ自伝『ハレルヤ・ジャンクション』)で、「このオペラのテーマは魂のエコロジーである」とお書きになっていますね。この「魂のエコロジー」とはどのような意味なのでしょうか。この言葉はキャッチコピーとしてはとても良いものだと思いますが。
アダムズ:たしかに。私が意味したことは、そう、人間がお互いに暴力をふるうときには、エコロジーを破壊しているのです。人間のエコロジー(human ecology)というべきものがあります。この《ア・フラワリング・ツリー》の筋書きの中で起きてくることはこういうことです。魔力を持った少女がおりました、己を美しい木に変身させる力です。彼女が生まれながらに持っている力なのですね。すなわちエコロジー的に完璧なバランスが保たれた状態なのです。ですから、そう、創世記のエデンの園の神話をご存じですね、あれに似た神話のようなものです。そこに若い王子がやってきて、彼女のエコロジーを破壊します。王子が少女に惹かれたからです。性的にも、魔力にも惹かれました。彼女には特別な力があり、彼はその力を欲したのです。ですから王子は少女を無理矢理娶り、言うまでもなく、無残な結果となるわけです。ある意味で、この惑星の現状への比喩とすることも可能でしょう。つまり、地球温暖化、権力や富への渇望、資源がもたらす富への欲求などを目にしています。これはエデンの園の喪失と同じ結果を引き起こしているのではないでしょうか。
――では、メディアで「このオペラは人間のエコロジーについて」と記しても間違ってはいないわけですか。
アダムズ:そうですね・・・テーマのひとつではあります。勿論、他のテーマもあります。富める者と貧しい者との間の権力党争とか。なにせ、権力も富もある若い男が力を乱用します。年老いた母を宮殿に呼びつけ、結婚したいという。若い娘には断る術がない。ここでもまた、私はモーツァルトの《魔笛》を思い出すわけですよ。
――次にモーツァルトとの関係についてお尋ねするつもりでした。
アダムズ:なぜなら、若者が試練を経て成熟を得るために魂の試練を課されるオペラが《魔笛》だからです。私のオペラでも同じことが起きます。この作品はひとりの若者についてのオペラなのですから。
――クムダも最終的に変わっていると思いますか。
アダムズ:ええ。
――彼女もこの試練を経て何かを得ている。
アダムズ:全くその通りです。彼女も苦しみますから。
――でもその苦悩は、彼女の母親の苦悩、例えば貧困とか、そういうものとはまるで違っていますよね。
アダムズ:違います。クムダは大いに苦しみます。彼女の苦悩は極めて不当なものです。彼女は苦悩すべきではない。私たちの人生の苦しみは、往々にして自分たちが行ってしまったことのためであると知っています。要するに、自分に責任がある、ということですね。そんな苦悩は仕方のないものでしょう。ときには、自分が悪くないのに苦悩せねばならぬこともある。それが《ドクター・アトミック》の問題でもあります。あの広島と長崎で殺された哀れな女性や子供たちがいますから。彼らは何の理由もなく苦しんだ、責任はなかった。
――なるほど。次にモーツァルトとの関わりについてお尋ねします。この作品はモーツァルトに触発され、2006年のモーツァルト騒動の直中にヴィーンで初演されているわけですね。両作品には音楽的な直接の関連はあるのでしょうか。
アダムズ:いいえ、全くありません。唯一の関わりは筋立てです。もうひとつは、私が《魔笛》という作品に感じることですけれど、この作品がモーツァルトが亡くなる直前の、極めて軽い音楽だということです。モーツァルトとすれば、まるで子供のような単純さへの回帰だったのでしょう。《ドン・ジョヴァンニ》やト短調交響曲のように、際立って半音階的で暗い作品と比べれば、《魔笛》はまるで民謡集です。魔法があります。私のオペラにも魔法があり、変容があります。若い娘には肉体の変容ですが、それはまた魂の変容でもあります。
――なるほど。最後に質問したいのは、このオペラが所謂「多文化」作品である点です。ヴェネズエラ、インド、ジャワ、などなど。この御著書で他文化主義に関して仰られていることはとても興味深いですね。特に、誤った解釈はときに極めて創造的なのである、というご意見です。このお考えについてもう少しご説明願えますか。というのも、私たち日本の音楽ファンはとても真面目で、このオペラを前にして、「おお、この作品を理解するにはジャワやらインドやらについて学ばねばならないのか」などと思ったりするわけですよ。そのような知識なしにこのオペラに接しても良いのでしょうか。
アダムズ:勿論、結構ですよ。
――でも、誤解するかもしれませんよね。
アダムズ:当然です。ですが、それが芸術というものです。私は、人が芸術作品を完全に理解可能だとは思っていません。そう、ここアメリカ合衆国ではモーツァルトを演奏する様々なやり方があります。恐らくそれは1790年にモーツァルトが演奏されていたのとは異なっているでしょう。それでも、私たちは特別なものを見い出します。ご存じのように、歴史的な情報に拠る演奏という流れがありますね。アーノンクールとか、ロジャー・ノリントンとか、ジョン・エリオット・ガードナーとか、そんな指揮者たちはオリジナルのボウイングに戻って演奏しようと試みたりしています。ですが、デリダなどが言うように、別の芸術伝統の全体像を知るのは不可能です。ですから、そのようなことを心配するより、私は単純に楽しんでしまいますね。
自分が無知であれ、私は私なりの異文化の印象を楽しんでしまいます。私は南インドにも、インドネシアにも行ったことがありません。でも、それでも私は自分なりのイメージを楽しむことが出来る。
――最後に、このオペラに接する聴衆にコメントをいただけますか。
アダムズ:書いて送りますよ。ですが、私の作品が日本で演奏されることをとても嬉しく思っています。私は日本文化には関わりを持っておりますから。息子のこともありますし、とりわけ《ドクター・アトミック》は私にとって極めて重要ですからね。
◆オペラ『ドクター・アトミック』について
――この作品はサンフランシスコでは聴けなかったのですが、アムステルダムでDVDの収録があった日に拝見させていただきました。周囲には英語を喋る人ではなく…
アダムズ:アムステルダムはオランダ人ですからね。
――ええ、なにしろあの台本の英語そのものが私が経験した中でも最も複雑な英語ですし。
アダムズ:申し訳ない。でも、今晩は英語のサブタイトルがありますから。
――全てが終わって、「ミズヲクダサイ」という言葉が流れますね。それがとてもショッキングだったわけです。広島の犠牲者の言葉だったのは勿論ですが、それはある程度予期できました。それよりも、あの場所ではオランダ人が殆どで、ドイツ人、アメリカ人で、オーケストラや合唱団には日本人がいたでしょうが、それにしてもあの場所であの言葉の意味が判る人は殆どいなかった。その言葉に翻訳がありませんでした。
アダムズ:ええ。
――シカゴでもその後に拝見させていただいたんですが、そこでもなかった。ここにありますリブレットにも、あの言葉は記されていません。どうしてなのでしょうか。
理由をお答えしましょう。まず、今回のメトの公演では変更を加えました。ここでは字幕を出します。
アダムズ:長い話になりますが、理由をお話しましょう。私がこのオペラを作曲していたとき、アメリカの新聞やメディア報道を沢山読みました。ご存じのように戦時下です。ですが、私が衝撃を受けたのは、パールハーバー攻撃があってから、日本人が人間として扱われなくなったことでした。日本人は敵でしかなく、エイリアンでした。全ての国が敵に対して同じでした。
それが戦争というものです。悲惨なことですが。人々は人間ではなく、単に目標に過ぎないのです。このオペラでは、オッペンハイマーや周囲の者たちが京都や長崎…
――横浜とか…
アダムズ:彼らはターゲットとして言及します。私があの日本人女性の声のサウンドを、単にサウンドとしてあって欲しかったのです。誰でもあれが日本語だろうとは判るでしょう。私は聴衆に、このターゲットは人間である、とあの瞬間に思い出して欲しかった。この人たちは兵隊ではなく、女性であり、子供たちなのです。老人たちなのです。その一方で、異なるものという感覚(alienation)も持ち続けて欲しかった。
――なるほど。
アダムズ:私たちは、そこに人間がいると知る。おや、その通りだ、私たちはこの爆弾を女たちの上に落とそうとしている。でも、私たちが彼女らが何を言っているかが分かるほど近くではない。私としては、そんな混乱した気持ちを強めたかったのです。
――つまり、エイリアンの言葉である、と。
アダムズ:そう、エイリアンの言葉ですが、とても美しい。あの女の人が何を言っているのか私たちには分からないけれど、人間であることは分かる。
――それも、若い女性。
アダムズ:そうです。私は彼女がなんと言っているのかは分からないけれど、人間であることは分かります。私はこの人の上に爆弾を落とした、何を言っているかはわからないけれど。聴衆はとても動揺しました。なんと言っているのかを知りたがりました。ですから、この上演では私は彼らの意見を入れて、翻訳を付けることにしたのです。恐らく、翻訳を付ける方が良いのかもしれません。
――それこそが私の一番知りたかったことなのですけど、翻訳がなかったのはアダムズさんの意図だったわけですね。
アダムズ:そうです。
――サンフランシスコでも翻訳はなかったわけですね。
アダムズ:ありませんでした。NY公演では付けますが。
――つまり、これも一種の、先程お話しさせていただきました誤解(misinterpretation)ということですね。
アダムズ:そう、それと承知しております。
――もうひとつ、あのオペラの中では、「この爆弾によって戦争を終わらせる」とか「日本侵攻時に予想される犠牲者の数を減らせる」とかいう非常によく耳にする議論は、あまり表だってなされていないように感じるのです。原爆の製作そのものに比べると、非常に現敵的な議論しかされていないように思えるのですが。
アダムズ:はい。《ドクター・アトミック》の中心となるストーリーは、この議論です。若い科学者たちが軍の中で職権を有していたわけです。若い科学者たち、中でもテノールのウィルソンなどは、自分らが爆弾を作っているのはヒトラーとの競争であると思っていました。日本のことは全く考えていなかったと思います。相手はナチスでした。日本は原爆を所有していないことは周知のことでしたからね。でも、ナチスが開発していることには知っていた。ですが、このオペラが部隊とするのは1945年の7月です。ヒトラーは自殺し、ドイツは敗北しています。これら若い科学者たちは突如気付くのですね、この爆弾は日本の民間人の上に投下されるのだ、ということを。彼らはその事実に動転します。全員が、ではありません。このプロジェクトに関係していた殆どの人は、爆弾を歓迎していました。なにしろこのお陰で戦争は数週間のうちに終わるだろうと思っていましたから。
――よく言われている論ですね。
アダムズ:ですが、最近では、2008年の時点では、アメリカ合衆国の私の周囲の人々の意見は原爆の使用には批判的です。対日戦争に関する文書が次々と明らかになっておりますが、それらは日本側が戦争を終える意図を持っていたと示しています。ひとつの問題は、ルーズベルトが無条件降伏(unconditional surrender)という言葉を用いたことにありました。日本はそれが国体に対する屈辱であると思った。
――ええ。
アダムズ:ですから、私にはなんとも言えません。私に言えるのは、以下のことで、それで判断していただきたい。私は原爆についていろいろ読んだり勉強したりして8年になります。ですが、いまだに私には原爆投下が正しい判断だったかどうか分かりません。原爆が使用されなかったら、より多くの人が死んだかもしれない。
――実は当時、私の両親は少年少女で、戦争末期に米軍が上陸する予定だった東京郊外の海岸の側に住んでおりました。彼らは自分達は死ぬと信じており、穴を掘ったりしてたといいます。ですから、ある意味で、広島の死がなければ、私自身がここにいなかった可能性もあるのです。その意味で、アメリカ側の主潮も分からないでもないんですよ。
アダムズ:そうなんですか。一方で、私たちアメリカ人には、実際に原爆を使用した唯一の国である、という罪があります。ですから…分かりません。判断は不可能でしょう。私が個人的に思っているのは、これは事実ですけれど、日本に原爆を使わなかったならば、朝鮮戦争で使用しただでしょう。賭けてもいい。
――そうでしょうね。さもなければ中国のどこかとか。
アダムズ:そうですね。
――もう終わりにせねばなりません。どうも有り難うございました。あの最後の部分の翻訳がないことがアダムズさんの意図であったと知ることができてのは、とても嬉しく思います。あの部分はセラーズさんの意図ではなく、アダムズさんの意図なんですね。
アダムズ:私の意図です。あの「ミズヲクダサイ」という言葉を見つけ出したのは私です。広島を訪れインタビューしたジョン・ハーシーの小説の中で、です。
――あの「ミズヲクダサイ」という言葉は、ある世代の日本人にはとても有名なのです。あの言葉だけで何の必要もない。
アダムズ:(驚いて)本当ですか。じゃあ、あれで人々は広島に結びつけられるのですか。
――ええ、単に「ミズヲクダサイ」というだけで充分なんです。
アダムズ:ホントに?「スミマセン、ミズヲクダサイ」、で?
――はい。それから先のことが全て繋がって、この言葉は象徴的になっているのです。
アダムズ:それは知りませんでした。
――ええ、当然、ご存じの上で使っているのだと思っておりました。日本の作曲家の林光が、あの言葉で合唱曲を作っています。60年代の作品です。
アダムズ:それは知らなかった。前衛的な作風でですか。
――ええ。個人的には前衛技法が唯一言葉の意味と適合した作品だと思っています。
アダムズ:作曲家の名前は。
――林光、です。日本では有名な方で、毎年、8月6日とかにこの合唱曲の演奏会が行われています。
アダムズ:「ミズヲクダサイ」がそんなに有名な言葉とは知りませんでした。
――実は、あの言葉を聞いた瞬間に、私は涙が止まらなくなってしまったのです。
アダムズ:それはそれは。
――ショッキングだったのは、そんな反応が出来たのは、オペラハウスで私だけだった、という点にあるんですよ。
アダムズ:なるほど(笑)。指揮者のアラン・ギルバートはご存じですね。彼のお母さんは日本人ですし。
――ええ、建部さんはよく存じ上げてます。彼女の世代は、確実に「ミズヲクダサイ」の意味をご存じです。もう時間ですね、ありがとうございました。