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【特別エッセイ】使用人からの脱出 モーツアルト生誕270年|8/8東京オペラシティシリーズ

文 野本由紀夫(元玉川大学教授)

 今年はモーツァルトが生まれて270年である。モーツァルトといえば天才「芸術家」。でも本当にそうだったのか?

 しばしば「ウィーン古典派」の偉人として、ほぼ15歳年下のベートーヴェンといっしょに語られがちだ。しかし、ベートーヴェンが正真正銘の「音楽芸術家1号」だったとすれば、モーツァルトは「0号」と言えるかもしれない。なぜならモーツァルトは、収入源がベートーヴェンとはまるで違ったからである。
 モーツァルトの生活実態は、貴族社会の「使用人」だった。年表を作成して載せておいたが、25歳(1781)のときウィーンに移住するまで、モーツァルトは故郷ザルツブルク宮廷の「使用人」であった。
 もちろん子供の頃は、父親レオポルトの扶養下にあった。レオポルトはザルツブルク大司教の宮廷楽師で、ヨーロッパ屈指のヴァイオリン奏者として有名だった。モーツァルトは13歳の1769年11月14日、宮廷のコンサートマスターに任命されるが、そのときはまだ「無給」。定収入はゼロだった。

 ちなみに、モーツァルトというと「作曲家」というのは、今日のイメージだ。彼が生きていたころは、一流のヴァイオリニスでピアニストで、「作曲もする」音楽家とみなされていたはずである。
 ようやく給料をもらえるようになったのは、16歳になってから。1772年8月21日に有給のコンサートマスター(楽師長)に昇格したのだった。ちなみにそのときの年俸は150フローリン。当時の熟練大工と同じくらいの収入であり、低く見積もって今日の70万円、いくら高く換算しても200万円ぐらいだった(彼のオペラ1作が450フローリン、ピアノ協奏曲1曲の委嘱料が75フローリンだったという記録がある)。
 ザルツブルクは司教座の所在地であり、カトリック教会のなかではかなりの格上だったので、この年俸でも10代の少年には悪くはなかったのだろう。しかし、そのような街の性格として、仕事の大半は教会音楽の演奏と作曲であり、ベネディクト派のザルツブルク大学の学校劇や修了式のためのセレナードの作曲も年中行事だった。

 これではとても経済的に独り立ちできないし、家族も持てそうにもない。だからモーツァルトは「求職旅行」に出かける。35年の生涯のうち、モーツァルトは17回も大旅行を行っているが(合計10年2か月余り)、そのうち3つは「求職旅行」なのである(年表の⑦⑧⑩)。16歳から17歳にかけての第3回イタリア旅行⑦では『エクスルターテ・ユビラーテ』K.165が作曲され、第3回ウィーン旅行⑧ではハイドン(1732~1809)の影響を受けた『ウィーン弦楽四重奏曲』が作曲された。
 ⑧の直後に、「小ト短調」交響曲K.183と本日演奏される第29番K.201が作曲されたわけだ。ウィーンで知ったハイドンの『太陽弦楽四重奏曲』に衝撃を受け、新たな交響曲の世界に踏み込んだのだろう。

 とはいえ、帰郷後も給料は上がらず、⑨をはさみ2年半もザルツブルクでくすぶることになる。雇い主である大司教のコロレドは、知性と簡素さを重んじる「啓蒙主義」を信奉しており、ミサ典礼も合理的に時間短縮、フーガも省略、楽譜の繰り返し記号さえカットさせた。経費削減のため学校劇も廃止し、楽団も縮小して30名程度とした(弦楽器21名+管楽器10名)。

 かくしてモーツァルトは本格的に転職を考えはじめ、ザルツブルクの職を辞し、1年半近くにおよび⑩マンハイム・パリ旅行を敢行する。マンハイムとパリは、当時世界一のレベルのオーケストラをかける双璧だった。とくにマンハイムは、楽長の年俸が3,000フローリンと破格だった。パリではモーツァルトに同行した母が客死、アロイジア・ウェーバー(のちの妻コンスタンツェの姉)にも失恋し、この就活旅行は大失敗に終わった。20歳を過ぎた「元神童」に、どの宮廷も興味を失っていたのである。
 1779年1月、屈辱の帰郷後すぐ、モーツァルトは復職を願い出る。ところが発令されたのは宮廷オルガニストの職。年俸は450フローリンにアップしたものの、少年聖歌隊のクラヴィーア教師も兼務する、やはり「使用人」扱いの地位だった。

 転機は突然訪れた。1781年3月16日、ミュンヘン滞在を経てウィーンに到着したモーツァルトは、大司教コロレドに呼び出されて大喧嘩。もともと折り合いが悪かったが、「辞めてやる」と啖呵を切って飛び出した。25歳にしてモーツァルトは使用人から「自由の身」の音楽家、すなわち「芸術家」の先駆者となった。
 ウィーンに移住した彼は、主として裕福な市民階級をターゲットとし、公開演奏会やピアノ・レッスン、自作品の楽譜販売で経済的自立を目指した。多いときは年収が4,000フローリンにも達していたというから、市立病院の院長クラスの稼ぎがあった。交響曲第40番を含む三大交響曲(第39~41番、1788)も、おそらくそうした市民相手の演奏会で収益をあげようと企画されたのだろう。

 貴族社会から市民社会に時代が移り変わっていく、まさにその時期にモーツァルトはウィーンで生きた。1789年7月にはじまったフランス革命を、彼は果たしてどのような気持ちで眺めていたのだろうか。
 彼が1784年に入会したフリーメーソンの標語は「自由・平等・博愛」である。それはそのままフランス革命の標語になっていく。また、歌劇『フィガロの結婚』(1786年5月1日初演)の中心主題は、貴族社会への反発である。だから、フランス革命につながるような心の火種は確かにもっていたのだろう。しかしそれは、市民階級への「共感」どまりで、宮廷文化を破壊する「革命」まで望んでいたかどうかは、きわめて疑わしいのではないだろうか。
 
 モーツァルトは、革命前夜の貴族社会に咲いた最後のあだ花だったのかもしれない。

東京オペラシティシリーズ第151回
2026年8月8日(土) 14:00 東京オペラシティコンサートホール

指揮:デイヴィッド・レイランド
モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」K.492から序曲
モーツァルト:交響曲 第29番 イ長調 K.201
モーツァルト:交響曲 第40番 ト短調 K.550

[8/8]公演詳細