ピアニスト イノン・バルナタンが語る、名匠オスモ・ヴァンスカとベートーヴェンでの東響初共演
ベートーヴェンこそ、真に人間的な音楽
インタビュー・文 青澤隆明(音楽評論)
ニューヨークを拠点に活躍する俊英ピアニスト、イノン・バルナタンが来たる春、オスモ・ヴァンスカとともに東京交響楽団の定期演奏会に初登場する。
2016年以来、たびたび来日を重ね、コンチェルトやリサイタルで注目を集めてきたバルナタン。2024年4月には《東京・春・音楽祭》に招かれ、“シンフォニック・ダンス”をテーマとするリサイタルで、ラモー、ラヴェル、ストラヴィンスキーを織りなし、自ら独奏版に編曲したラフマニノフの「交響的舞曲」で結ぶユニークなプログラムを豊麗に実らせた。
「これまでの経験から私は、日本がベストの国だと感じています。すべての細部を美しくする努力を惜しまない、それが文化の一部になっているからです。スプーンであれなんであれ、完璧になるまで、美しくなるまで磨き上げる。それはクラシック音楽にはとても良いことだと思います(笑)。私は日本にいるのが大好きですし、東響の評判もきいていますから、共演が待ちきれませんよ」とバルナタンは微笑む。
盟友アラン・ギルバートとともに初めて日本を訪れ、東京都交響楽団とベートーヴェンの協奏曲第3番を聴かせたのが2016年。ギルバートとはベートーヴェンのピアノ協奏作品全8曲のレコーディングもしている。「私はベートーヴェンのどのコンチェルトも好きですから、初来日のときはアランが第3番を選んだのだと思います。東響とも初顔合わせにこの曲を演奏するのは偶然ですが、私にとっては幸せな符合です。オスモ・ヴァンスカとは何度も共演していますが、ベートーヴェンは初めてなので、それも楽しみです」。
名匠オスモ・ヴァンスカとは彼が音楽監督を務めたミネソタ管弦楽団をはじめ、フィラデルフィア管弦楽団、ロサンジェルス・フィルハーモニックでも共演を重ね、確かな信頼関係を築いてきた。彼はまた、バルナタンが続けるカリフォルニアのラホヤ音楽祭にも参加している。「マーラーを指揮して、それからクラリネットも演奏したけれど、ほんとうに素晴らしかったですよ。彼の奥さんはミネソタ管弦楽団のコンサートマスターですが、もともと彼女とは年も近く、若い頃は室内楽をいっしょにしていたから、彼と出会う前からの知り合いなのです。最初にミネソタで会ったとき、彼がどれほどオーケストラに愛され、音楽的なコミュニケーションがとれているかがすぐにみてとれました。非常にシリアスな音楽家で、シリアスな人だけれど、親しくなってみると、とても愉快な人でもあります。最初に会ったときから、ダイレクトなことにも打たれましたね。自分の考えや望むことを正確に言ってくるし、彼と音楽するのは心地よく、とても楽しい。そのようにして、私たちはたくさんの経験をともに積んできましたし、そのことが音楽づくりにも大きく役立っていると思います」。
まだ後期作には手をつけていないが、いずれ時間をかけてベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲にも取り組みたいと語るバルナタン。「ベートーヴェンは、クラシックとロマン派のレパートリー、小さな音楽と大きな音楽のちょうど中間に立っています。西洋音楽のすべての中心に位置している。だから、多くの異なるものを包含していて、演奏家は異なる方向からアプローチすることができます。とくに協奏曲第3番は、最初のロマン派コンチェルトだと私は思います。モーツァルトとも多くの関連があり、同時に未来をまなざし、ロマン派が展望されている。たとえば第2楽章はおそらくベートーヴェンがもっともベル・カントに近づいた地点でしょう。だから私はピアノではなく、歌手のことを考えて弾きます。俳優の仕事のように、人物の背景や発言の裏にあるものを理解しようと私は努めています。俳優は言葉そのものよりも声のトーンやテンションで多くをつくり出しますよね。おなじように、オーケストラをよく聴きながら、全体の雰囲気のなかでいかなる意味をもつかということをふまえ、響きをかたちにしていくのです」。
近年はベートーヴェンに倣った即興演奏も試み、さらにその表現の潜在性に敏感になったという。歳月を経て、彼の音楽をバルナタンはどのように捉えているのだろう?
「それは大きな質問ですね。3歳半のとき弾いた月光ソナタの映像がスマホに入っているけれど‥‥。ベートーヴェンについて私が新たに言えることはほとんどありませんが、究極的にみて、もっともヒューマンで正直な音楽のように思えます。それだけの力と直截性と人間性がある。私たちにとても近くて、だけどエピックという感じもある。現人神のようです(笑)。ベートーヴェンの音楽はある意味、私たちとおなじように欠陥があるような感じがします。非常に直情的で、人間の事情や情感や経験に根差している。モーツァルトのように完璧で、魔法みたいなものではなく、私たちみんなが抱いているような、人間の葛藤のなかから出てきた音楽だと感じられる。だから、私はベートーヴェンの大ファンなのです(笑)」。
●第728回 定期演奏会
2025年3月29日(土)18:00 サントリーホール
●川崎定期演奏会 第99回
2025年3月30日(日)14:00 ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:オスモ・ヴァンスカ
ピアノ:イノン・バルナタン
ニールセン:序曲「ヘリオス」op.17
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第3番 ハ短調 op.37
プロコフィエフ:交響曲 第5番 変ロ長調 op.100