《音楽監督ジョナサン・ノット 対談シリーズ⑥》

ワーグナー、デュティーユ、シューマンを語る

音楽監督ジョナサン・ノット

東京交響楽団とジョナサン・ノット。相思相愛のオーケストラと指揮者が奏でる音楽は、直近数回の演奏会だけをとってみても、ますますその充実度合いを増している。2016年10月9日、東京オペラシティコンサートホールでの第94回演奏会も、武満徹『弦楽のためのレクイエム』、ドビュッシー『海』、ブラームス『交響曲 第1番』という、直後に控えたヨーロッパツアーを見据えたプログラムで、聴衆の圧倒的な支持を得た。演奏会翌日、完全オフのマエストロに少しだけ時間をいただき、前日のブラームスの出来映え、そして12月の第647回定期演奏会で演奏される、ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』第1幕への前奏曲、デュティーユ『チェロ協奏曲「遙かなる遠い国へ」』、シューマン『交響曲 第2番』について、大いに語っていただいた。

―昨日のコンサートも素晴らしい、驚くべき演奏でした。心から堪能しました。

ノット:我々のコンビが演奏するのは年間8種のプログラムです。決して多いとはいえませんが、だからこそ、ひとつひとつの作品の「響き」を、とことん追求することができます。ブラームスの深い響き、ドビュッシーの美しさ、そしてそのドビュッシーに影響を受けた武満にも相通ずる世界、オーケストラも、聴き手の皆さんも、きっとそんなところに共感して下さったのだと思います。

―ブラームスでは第1楽章で提示部を繰り返されましたね。2回目の提示部の演奏で、1回目のときよりも遙かに推進力が増していたのは本当に驚きました。

ノット:提示部でハ短調だった曲が、展開部では半音低いロ長調へと唐突に転調します。提示部を繰り返さずにそのまま展開部に行ってしまうには、まだ我々の側の準備が整っていないのでは、と思い、もう少しハ短調の世界にとどまりたいな、と(笑)。ただし、2回目はそのロ長調の世界へ向けて、推進力を高めていこうとしたのは確かです。こういう柔軟な演奏を東京交響楽団とできるようになったことが、本当に嬉しいです。

―12月定期で演奏されるワーグナーとデュティーユ。この2曲は今回、続けて演奏されるのですね。

ノット:そうです。19世紀フランスの詩人、ボードレールやマラルメを魅了したワーグナーの音楽、とくに『トリスタン』における官能性がデュティーユの作品に続いていることを示したかったのです。『トリスタン』の冒頭部分もチェロ、そしてそれに続くチェロ協奏曲。相通じるものがありますよね。本当は「愛の死」も演奏したいのですが、それだとデュティーユを演奏できずに自己完結してしまうので(笑)。香りすら感じられるのでは、というような、エロティックな音楽であることも共通しています。

―『トリスタン』の冒頭部分は、チェロによるトリスタン・モティーフと、木管によるイゾルデ・モティーフ。そしてそのふたつをつなぐ、いわゆる「トリスタン和音」からできています。私は音楽史の授業でこの作品を教えるときに、正確ではないのですが、「イ短調へ向かうためのドッペルドミナント」と、かなり端折った説明をしてしまうのですが、この部分、マエストロはどのような音楽を聴き取っておられますか?

トリスタン・モティーフ
ノット: 私はもっとひとつひとつのモティーフにフォーカスして考えています。たとえば最初のチェロ、トリスタン・モティーフに注目してみましょう。A-F-Eという一小節目の旋律を聴くと、ひとはおそらくニ短調の響き(注:ニ短調主和音の第二転回形)を感じるはずです。これ、ちょっと話は逸れますが、実はベートーヴェンでも同じことが言えますよね。『交響曲第5番 ハ短調』第1楽章の有名な冒頭、ジャジャジャジャーン(とかなりデフォルメして歌うマエストロ)、この音は、G-G-G-Es、この音の連なりだけ見れば、ハ短調ではなく、変ホ長調が感じられます。『第5番』ではなくて『第3番』(笑)。我々が音楽の中に調性を聴き取る、というときは、大抵の場合、その前後のつながりから類推することになるわけで、それは古典派の作品でも変わりません。
 『トリスタン』の話に戻りましょう。ニ短調かな、あるいはイ短調かな、と思わせるこのトリスタン・モティーフは、Dis音へ続き、聴いたこともない縦の響き、いわゆるトリスタン和音が導かれ、その向かう方向性が断ち切られます。この不安感は、イゾルデのモティーフ、Gis-A-Ais-Hという半音階進行によって、さらに曖昧にされます。というよりは、この調性感を与えるトリスタン・モティーフと、不安定感を増幅するイゾルデ・モティーフ、ふたつの相反する性格を有するモティーフをつなぐために、ワーグナーが本能的に生み出したのでしょう。そして、最終的に属七和音にたどり着いても、解決せず、さらに憧れと悩みが増していく。本当に天才的な音楽であり、この半音階にいつも魅了されます。

―モティーフと言えば、シューマンの交響曲第2番でも、全楽章をつなぐトランペットのモティーフが聴かれます。C-C-C-Gというモティーフ、先ほどのベートーヴェンにも似た3+1の構造ですが、精神的な危機の時代へとさしかかっていたシューマンの状態を表現しているとも言われますね。高所恐怖症でもあったようですが。

モティーフ
ノット:これまで日本ではシューベルトを演奏する機会が多かったのですが、ようやくシューマン作品を本格的に指揮することができます。本当に愉しみです。そのモティーフ、突然第2楽章の最後などで出てくると、わかっていても驚きます。この前ブラームスを演奏したばかりだと、形式においてシューマンの尖鋭さは際立っていたな、と改めて感じます。シューマン『第2番』の作曲が1845〜46年で、『トリスタン』が1857〜59年。わずか10年しか違わない。精神的な不安定さを描く音楽として、共通するところもかけ離れているところもある。本当に興味深い現象です。
ブラームスはソナタ形式に代表される形式を、19世紀後半においてかなり守りますからね。一方で、シューマンの第2番、特に第4楽章は、かなりソナタ形式が崩れてしまっています。もし形式を崩すことで、聴き手の不安感を掻き立てようとシューマンが考えたのであれば、これは凄いことです。この音楽が結局どこへ向かっていくのか、わからないままに終わってしまうのですから。ブラームスはそういう音楽を作ることに堪えられなかったのでしょう。オーケストラにはできる限り、コンパクトに、速いテンポで、シューマンの音楽にあるこれらの要素を表現してもらおうと考えています。

マエストロ、ジョナサン・ノットの脳内には、音楽に関するあらゆるイメージとアイディアが飛び交い、燦めいており、1時間のインタビューの間、それらを早口でしゃべりつつ、言葉で懸命に掴まえようとしていた。12月の演奏会では、ここに綴られた言葉以上に、ノットと東京交響楽団が奏でる音楽が、雄弁にそのメッセージを伝えてくれるはずである。

広瀬 大介(音楽学・音楽評論)


音楽監督ジョナサン・ノット指揮 公演情報

  • ■ 第647回 定期演奏会
    12月3日(土)18時開演 サントリーホール >>詳細
  • ■ 川崎定期演奏会 第58回
    12月4日(日)14時開演 ミューザ川崎シンフォニーホール >>詳細
  • 指揮=ジョナサン・ノット
  • チェロ=ヨハネス・モーザー
  • ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」第1幕への前奏曲
  • デュティーユ:チェロ協奏曲「遙かなる遠い国へ」
  • シューマン:交響曲 第2番 ハ長調 作品61

*1曲目ワーグナーと2曲目デュティーユは続けて演奏されます。予めご了承ください。

音楽監督ジョナサン・ノット