【特別対談】今年、第九を演奏するということ
林 淑朗(亀田総合病院 集中治療科部長) × 辻 敏(東京交響楽団 事務局長)
※この対談は両者の間にアクリル板を設置して行いました。
私たちにとっての《第九》
辻:東京交響楽団の第九公演にはもう40年以上の歴史があります。毎年全国各地の合唱団と何度も演奏しますが、やはり飽きることがない。オーケストラにとって大事なレパートリーで、今後もずっと追い続けるものなのだと思っています。
林:クラシック音楽の好きな方々は「第九がないと一年が終わらない」といった感想をお持ちの方がとても沢山いると思います。特にベートーヴェン生誕250年の記念の年に、第九が演奏される機会が少なくなるというのは、残念なことですよね。
《監修》までの流れ
辻:今年3月、まだこのコロナ禍について先が見えない時期に、とある演奏会の感染症対策を林先生がされていたという話を聞いて。第九の相談をしたら「今年はやめたほうがいいんじゃないですか」というお話でした。林先生もかなりの音楽好きでいらして、だからこそ「無理をしてでもやる」のではなく「やめたほうがいい」と最初に言っていただけたのは、逆に信頼できるかなと思いました(笑)。
林:当時は、COVID-19に関して科学的に未知のことがあまりにも多く、日本国内のムードも極めて悲観的でしたので率直に言いました。第九以外にもベートーヴェン には素晴らしい作品は沢山ありますし、なにも今年第九を演奏しなくてもよいのではないかと。しかし、その後、日本における感染状況は幸いにして欧米のような悲惨な状況にはならず、日本政府や日本社会全体も経済活動・社会活動再開を容認するムードになりました。COVID-19に関する医学的知見も増えました。東響さんも「第九公演をなんとしてもやりたい」という強い意志を私に示されました。行政当局から自粛要請が出ているのであればそれに従うべきですが、「第九公演をやるかやらないか」を医学的・科学的に判断することは困難です。東響さんや聴衆の価値観も大切です。今回は東響さんの「第九をやるんだ」という強い意志を感じたので、ゼロリスクは目指せないけれども聴衆・演奏者・スタッフの感染リスクが少しでも小さくなるような医学的アドバイスをしたいと思ったのです。
《第九》のリスクとは
林:第九特有の問題としては、やはり合唱が入るということです。歌うという行為で飛沫が飛びますのでそのリスクをどう下げるかを考える必要がありました。一方で、プロの芸術家として質の高い演奏をしなければならないという価値観の尊重も重要です。そのために、まずは、音楽がしっかり表現できる範囲内で合唱団の人数を可能な限り減らす。そしてコンサートホールのように空調がしっかりした環境で練習をする。練習の回数や練習時間を極力減らす。これらの条件を満たす方法を考えた結果、プロの合唱団(またはそれに準じる合唱団)でないと、今年の年末に第九公演を実現するのは難しいと考えました。 年末の第九公演でプロのオーケストラと共演することを大きな目標とし楽しみにしているアマチュア合唱団が多くあることは理解していましたが、第九公演や合唱を伴う公演の経験値が乏しい現状で、上記の条件の整い難いアマチュア合唱団と数ヶ月後に第九公演に挑戦するのはあまりにもハードルが高すぎると思いました。4人のソリストの位置をステージ前方にする場合には、客席最前列との間の距離に注意する必要があると思います。
辻:ソリストの立つ位置は指揮者によって好みがあるので、指揮者と相談しつつ、ステージマネージャーと図面をみて具体的に詰めていく予定です。現時点では今でているガイドラインに基づき、一部座席を売り止めにしていますが、最終的な実験の結果によって、そこを販売していくことも考えています。
演奏会を“満席”に
林:クラシック音楽の演奏会で、客席を満席で開催するのは、客席収容人数を半分以下にした場合に比べて高いリスクになるということを疑問視していた人は少なくないと思います。クラシックの演奏会は、世界で最も静かな場所と言っても過言ではありません。小声で話すことすら許されない環境です。生理的な咳は抑えられない場合もありますが、多くの人はそれも加減しますし、しかもコロナ以降の聴衆は皆さんマスクをしています。さらに、クラシック音楽専用ホールは、収容人数に対し十分大きな容積と換気条件を備えています。
クラシックの演奏会もイベントという大きなカテゴリーの中に入れられて、大声を張り上げたり人が入り乱れたりするようなイベントと同じカテゴリーに入れられてしまうのはクラシック音楽関係者としては納得いかなかったと思います。7月に私と何人かの専門家達で長野県茅野市の実験施設で実験を行いましたが、マスクをしていれば仮に咳をしても、すぐ隣の席の位置やすぐ前方の席の位置で、飛沫を殆ど観測することはできませんでした。その実験結果を元に日本クラシック音楽事業協会をとおして政府に要望を出し、ようやく9月にクラシック音楽の演奏会の客席を満席にすることが政府から容認されました。
それでも第九をやるということ
2019年12月28日 サントリーホール ©T.Tairadate/TSO
辻:これまでも人間はウイルスと長く付き合ってきたのだと思いますが、いろいろ調べてみると、感染症が流行した後に、世の中が良い方向に向かう時と悪い方向に行く時と両方あるんですよ。長引くこの状況は本当にこたえますが、いつか終息した時に、特に文化を職業にしている我々がとにかく頑張って良い方向に乗り越えて行かないといけないな、とつくづく思っています。そういった意味では、ベートーヴェン生誕250周年の最後に、日本で積極的に演奏会が行えているという事が、今我々にとっては非常に誇らしく、ラッキーだったな、良かったなという風にも思えます。
林:苦悩に始まり最終的に大きな喜びに繋がる《第九》。本来であれば一年を振り返り、晴れやかに終わらせようという意味も込められているでしょう。ですが今年は皆さん複雑な思いで聴かれるのではないかと思います。12月の段階で真に歓喜を分かち合える状況に世界がなっているとは考え難いです。近い未来に、平和な日々があったらいいなと、そういう願いを込めて聴く方が多いのではないでしょうか。
(2020年10月ミューザ川崎シンフォニーホールにて、インタビュー:事務局)
林 淑朗(亀田総合病院 集中治療科部長) 1972年群馬県前橋市生まれ。群馬大学医学部医学科卒。群馬大学大学院医学系研究科博士課程修了。医学博士。集中治療専門医。麻酔科指導医・専門医。群馬大学医学部附属病院集中治療部助教、オーストラリアのロイヤル・ブリスベン・アンド・ウィメンズ・ホスピタル集中治療科、クィーンズランド大学臨床研究センター上級講師を経て2013年より現職。趣味は音楽鑑賞とピアノ演奏。好きな作曲家はベートーヴェン 。