《音楽監督ジョナサン・ノット 対談シリーズ⑤》

リゲティ・パーセル・R.シュトラウス――コントラストが導く宇宙的体験
取材・文/舩木篤也 Atsuya Funaki(音楽評論家)

音楽監督ジョナサン・ノット

―4月のオペラシティでの演目を見ると、スタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』がすぐに思い浮かびます。枠となる曲、リゲティの「アトモスフェール」とR. シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」は、いずれもあの映画の中で用いられていました。

ノット:もちろん、それを念頭に置いての選曲です。まず、リゲティをなるべくたくさんお聴きかせしたいという前提があった。しかしそればかりで成功に導くのは難しい。そこで、あの映画との絡みから「ツァラトゥストラ」を考えました。

そもそも私は、音楽作品そのものと作品がその後にたどる生との関係に、とても興味があるのですよ。「アトモスフェール」は本来あの映画とは関係がなく、それ以前に書かれていた。つまりキューブリックによって「使われた」わけですが、それは宇宙という別世界と、この映画の思想とを描くのに適していると考えたからですね。「ツァラトゥストラ」の開始部も、映画中のあの太陽の挨拶――ニーチェの同名の著作もそれで始まります――と、もう切っても切り離せなくなっている。そうした音楽作品が、今、私たちにどう作用するだろうか?
  それはまた、モダニティ(現代性)を問うことでもあります。「アトモスフェール」は、その明快さゆえに、現代音楽のよき入門となるでしょう。「ツァラトゥストラ」にも、12音音楽のようなところがあります(「科学について」)。かと思えばウィンナ・ワルツもある。最後はハ調とロ調の闘いとなりますが、勝敗未決で終り、なんとも言えない不安を残します。

音楽監督ジョナサン・ノット

―「ツァラトゥストラ」では、ハ調は自然、ロ調は人間を表しますね。「自然と人間」は、あの映画における、またニーチェにおける一大テーマでもあります。それにしてもノットさんは、「音楽は音楽。視覚像など音楽外の要素と結びつけるなどもってのほか」とはお考えにならないのですね。

ノット:まったく考えません。これは、「絶対音楽か標題音楽か」という19世紀の議論とも関連してくるでしょうか。

「アトモスフェール」のスコアを一瞥すれば、どうしたって視覚的な印象を受けますよ。それ自体とても美しいのですから! そしてそれを音で聴けば、もうアトモスフェール(=地球をとりまく大気)の、自然の「現象」というイメージを振り捨てられない。混じりけのない白い音に、次第に黒い音が混じってゆく……。

どんな作品を演奏する場合でもそうですが、私は音楽に一つの流れを持たせるべく、つねに構築されたストーリーを、視覚的な手がかりを見いだします。像=イメージなくして、音楽を読み解くことはできませんから。

また、作品の受容史ということも絶対に無視できない。これらの作品がキューブリック映画を通ってきたのは現実です。モーツァルトを今、60歳のカラヤンのように演奏すれば、この間になされたモーツァルト時代の演奏に関する研究成果を無視することになりますよね? それと同じです。

―この2作とリゲティの「ロンターノ」を含めて、今回ひとつの主題として「混沌」が浮かび上がってくるでしょうか。それら3作ではメロディもハーモニーも拍子も分からない状態が長く続き、聴く者はそこへと投げ込まれます。前回の演奏会(リゲティ、R. シュトラウス、ショスタコーヴィチ)が、打楽器に代表される時間的「秩序」を前面に出していたのとは対照的です。

ノット:そのとおり。「アトモスフェール」の最初は、律動というものを完全に無視していますね。ただ、そんな中でも楽員は呼吸をし、弓を動かし、生命はうごめいている。雲がすっかり静止しているように見えてたえず自己形成をしているようなものです。

「ロンターノ」では、浮遊する音はさらに緻密さを増します。こまかく揺動するポリフォニー――リゲティのいうミクロポリフォニー――のなかで、まるで分子が結合したり分裂したりするように、交代が起こる。ピッコロの音高からコントラバスのそれへと6オクターブも跳躍下行したり。またメロディーも聴き取れますし、カノンが果てしなく続き、長調の響きが突然現れたりもする。調性への憧れ! これはほとんどシューベルトですね。

―「ロンターノ」のスコアには、作曲者によるこんな但し書きがあります。「記されているのはポリフォニー、聞こえてくるのはハーモニー」。「メロディはそのラインが聞こえてはならない」。ポリフォニー=多声性も、今回のキーワードになりますか?

ノット:リゲティの3曲目「サンフランシスコ・ポリフォニー」になると、もっとドラマティックな要素と直面することになりますよ。ここでは一個のストーリーをたどって行けるでしょう。演奏は非常に難しいのですが。

これらリゲティ作品の間に、古いパーセルのヴィオラ・ダ・ガンバによる四重奏曲を挿んだのも、異なったポリフォニーを対置するためです。パーセルの英国式の和声に触れた後では、より敏感にリゲティに反応できるはずです。

演奏会の前半では、私たちは演劇性にも関わることになるでしょう。私は四重奏団を、オーケストラがいるのとは違う空間に配置し、そこにスポットライトを当てますよ。同じプログラムをベルリン・フィルとやった時は、その間、オーケストラのほうを真っ暗にしましてね。リゲティとパーセル、つまり新しいものと旧いものとに、交互にフォーカスを当てるわけです。それこそ映画のカメラのように!

コンサート全体は、大(リゲティ)、小(パーセル)、大(リゲティ)、小(パーセル)、大(リゲティ)ときて、特大(シュトラウス)へと続く。ガンバの響きが、それら多用な要素を――そこには哲学的な要素も――結び合わせてくれるでしょう。「ツァラトゥストラ」にだって、室内楽のようになる所がありますからね。

―コントラストを設けるのは、音楽家ノットさんの方法論と言えそうですね。

ノット:思いもよらなかった関連性を、身をもって体験すること。それこそが興味深いのであって、人間的経験の「広がり」を示すものだと思うのです。コントラストが重要になってくるのは、その意味においてです。そして私は、それを意識して「練習」と捉えます。オーケストラは、さまざまに異なる音楽行為にすばやく順応しなくてはなりませんからね。それによって、ひいては私たち音楽家同士の関係も、すみやかに発展することになるでしょう。

―川崎定期とサントリーホールの演目にも、興味ぶかいコントラストが認められます。

ノット:ふたつの現代曲、シェーンベルクの「ワルシャワの生き残り」とベルクの「ルル組曲」、各曲で歌う独唱者が、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」になって共にステージに立ちます。これは聴く者に、どこか「和解」の想念を抱かせるでしょう。

―「ドイツ・レクイエム」という題には、ひとまず「ドイツ語で書かれたレクイエム」くらいの意味しかないわけですが、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺とも関係する「ワルシャワの生き残り」の後に置かれると、「ドイツ」の語が、突然、別のニュアンスを帯び始めますね。

ノット:「ワルシャワ」を演目に入れるのは少し多すぎるかな、とも考えたのですが。しかしこれによって、全体がより深いメッセージ性を持つことになります。「レクイエム」にたどり着くには、人生のあらゆるスペクトルムを、すなわち善も悪も知っておかなくてはならないわけです。この演目構成によって、レクイエムというものが持つポエジー(詩的内実)を、より先鋭化することができると考えています。

―ありがとうございました。

(2015年11月、都内にて)

音楽監督ジョナサン・ノット指揮 4月公演情報

  • ■ 東京オペラシティシリーズ第91回
    4月16日(土)2:00p.m. 東京オペラシティコンサートホール >>詳細
  • 指揮=ジョナサン・ノット
  • 神戸愉樹美ヴィオラ・ダ・ガンバ合奏団
  • リゲティ:アトモスフェール
  • パーセル: 4声のファンタジアト調、二調
  • リゲティ:ロンターノ
  • パーセル: 4声のファンタジアヘ調、ホ調
  • リゲティ:サンフランシスコ・ポリフォニー
  • R.シュトラウス:交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」

  • ■ 第639回定期演奏会
    4月23日(土)2:00p.m. ミューザ川崎シンフォニーホール >>詳細
  • 4月24日(日)2:00p.m. サントリーホール >>詳細
  • 指揮=ジョナサン・ノット
  • ソプラノ=チェン・レイス
  • バス・バリトン&語り=クレシミル・ストラジャナッツ
  • 混声合唱=東響コーラス
  • シェーンベルク:ワルシャワの生き残り~語り手、男声合唱と管弦楽のための ベルク:「ルル」組曲 ブラームス:ドイツ・レクイエム
音楽監督ジョナサン・ノット